大野晋「文法と語彙」岩波書店 (1987)

isbn:4000020021

私が中学の生徒のときのことである.小説の面白さを覚え始めた私は数学の勉強を何時の間にか怠っていた.その結果は次第に明白になって来て,中学の四年生に進級した時には,幾何,代数は不得手な学科になっていた.その時,組担任の先生からお話を伺った.「自分もそういう経験がある.事は簡単なのだよ.二年生の本,つまり幾何の最初のところからやり直せばいいんだよ.」四年生になりながら二年生の教科書の第一ページから勉強して行くということは,当時の幼いプライドを傷つけるに十分であったが,結局私は,二年生の本の第一ページから勉強し直した.二点を結ぶ直線は一本あって一本に限るとか,平行な二直線は相交わることはないとかいうところから始めて,同位角は相等しいというところへ進み,二辺とその夾角の等しい三角形は合同であるという証明などに進んで行った.そして二年生の教科書を丁寧におさらいし終わった時,私は次第に安心を取り戻し,ようやく人並みに追いついて行くことができるようになった.その復習の過程を通して私が強い感銘をうけたのは,私がようやく幾何を理解できるようになったということについてではなく,分かりきったことのように見える公理から始めて,その発展として定理をさだめ,系を生み出し,その組合せによって次の定理に進み,壮大な組織を作り上げて行く幾何学の体系の整然たる見事さについてだった.
私は今はもう,幾何について実際にはほとんど記憶していない.初等幾何学的事実は,普通の人間,ことに文科系の,文字や言葉を取り扱っている人間の大部分に対しては,さしたる実用性はない.三角形の二辺の和は他の一辺より大であるということの幾何学的証明が書けない人間でも,町角を直角に曲がる道を行くよりも,斜めの突き切る道を行った方が近いことを知っており,今の私もその程度以上に出る初等幾何の知識を持つものではない.その意味では幾何学を習ったことの実用性は,さして大きいとは考えられない.しかし私が幾何を自力で復習したときに感じ取った,幾何学の整然たる秩序,積み重ね,発展していく思考のうるわしさ,それは今日でも私に,人智の崇高さを教え,学問の厳しい美しさを啓示する.
私は論理的思考,思考における秩序の重大さ,似て非なる証明の無価値,逆は必ずしも真ならずということの重要性,それらを,その苦しかった幾何の復習を通して学びとり,身につけたように思う.私は結局,幾何が好きにも得手にもならなかった.しかし幾何学を尊敬し,幾何学に対して感謝したい気持を,私は今も持っている.