小林秀雄「私の人生観」角川文庫 (1954)

isbn:9784041141045

  • 私は,書くのが職業だから,この職業に,自分の喜びも悲しみも託して,この職業に深入りしています.深入りしてみると,仕事のなかに,おのずから一種職業の秘密とでも言うべきものが現われて来るのを感じて来る.あらゆる専門家の特権であります.秘密と申しても,むろんこれは公開したくないという意味の秘密ではない.公開が不可能なのだ.人には全く通じようもない或るものなのだ.それどころか,自分にもはっきりしたものではないかも知れぬ.ともかく,私は,自分の職業の命ずる特殊な具体的技術のなかに,そのなかだけに,私の考え方,私の感じ方,要するに私の生きる流儀を感得している.
  • 手仕事をする者はいつも眼の前にある物について心を砕いている.批評という言葉さえ知らぬ職人でも,物に衝突する精神の手ごたえ,それが批評だと言えば,わかりきったことだと言うでしょう.
  • 科学とはきわめて厳格に構成された学問であり,仮説と検証とのことを非常な忍耐力をもって,往ったり来たりする勤労であって,今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかというものとは関係がないということです.
  • 扱う材料に精通し,材料の扱い方に個性的方法を自覚し,仕事の成り行きに関し,素人の覗い知れぬ必然性を意識し,成就した仕事に自分の人格の刻印を読む,そういうことがどんな仕事にせよ,練達の人には見られる
  • ある人が,ベルグソンの文章を評して,まるで,光線のようだと言っているが,彼のような透明で正確な文章は,フランスでも稀有のものでしょう.彼は哲学者として,ひたすら正確に語ろうとしたので,正確に語れないところは,文学的表現でごまかしたというようなことは考えられない.彼の天才は,まず,哲学史などという曖昧なものは一切信用しないところに現われたようです.哲学者の使用する専門語,その正確さが,当の哲学者個人の定義如何に関係するような言葉はことごとく避けられている.専門語を使わねばならぬ場合は,必ず科学から採られている.正確に考えるためには,日常言語で足りるというデカルト的決断,まずそこに現われる.
  • 彼は,青年期の六十余回の決闘を顧み,三十歳を過ぎて,次のように悟ったと言っている,「兵法至極にして勝つにはあらず,おのずから道の器用ありて,天理を離れざる故か」と.ここに現われている二つの考え,勝つということ,器用ということ,これが武蔵の思想の精髄をなしているので,彼は,この二つの考えを極めて,ついに尋常の意味からはるかに遠いものを摑んだように思われます.器用とは,むろん,器用不器用の器用であり,当時だって決して高級な言葉ではない,器用は小手先のことであって,物の道理は心にある.太刀は器用に使うが,兵法の理を知らぬ.そういう通念の馬鹿馬鹿しさを,彼は自分の経験によって悟った.相手が切られたのは,まさしく自分の小手先によってである.目的を遂行したものは,自分の心ではない.自分の腕の驚くべき器用である.自分の心はついにこの器用を追うことができなかった.器用が元である.目的の遂行からものを考えないから,すべてが顚倒してしまうのだ.兵法は,観念のうちにはない.有効な行為のなかにある.有効な行為の理論は,あまりに精妙で,これを観念的に極めることは不可能であるから,人は器用不器用などと曖昧なことで済ましているだけなのである.必要なのは,この器用という侮蔑された考えの解放だ.