諏訪哲二「学力とは何か」洋泉社新書 (2008)

学力とは何か (新書y)

数学にかかわる私の教師体験を語ってみよう.私の勤務していたK女子高の数学科は,生徒全員に理系に行ける数学をやらせようとして,かなり高度な授業をしていた.数学はご承知のように,ほかの教科に比べて合う生徒,合わない生徒がはっきりしている.数学の得意でない生徒が高校1年のときから,理系進学に適合できる数学をやらされてはたまらない.それでなくても,各中学のトップにいた生徒たちが,K女子高に入ってきて,成績(順位)がガタ落ちして精神不安定になっている.二学期の父母面談でも,数学科へのクレームが続出する.私は数学はわかる生徒とわからない生徒がいると思っていたので,数学は単位が取れる程度にやればいいのではないかとサジェスチョンしていた.
ところが,最初の学年が三年になったとき(1992年),旺文社の専門家を読んで,受験情報を仕入れる会があり,そこでひとつ強烈な示唆を受けた.旺文社氏は「とにかく,(文系を目指そうとも)最後まで数学を捨てない生徒が伸びる」と断言するのである.理系であろうが,文系であろうが,最後まで数学を抱えていた方がいいと言うのだ.
私はできない数学に脅かされるよりも,どうせ私大文系に行くのだから,数学を放棄して精神衛生をよくして勉強に臨んだ方が,効率的でもあると判断していた.数学的リテラシーを軽視するつもりはないし,実生活に役立たないなどと馬鹿なことを言う気もない.ただ,全員に理系の数学をクリアーさせるなどと,独りよがりの非現実的なことを言っている数学科に,生徒(子ども)たちが引きずり回されるのも可哀想だとも思っていたのである.
しかし,旺文社氏の「とにかく,最後まで数学を諦めさせない方がいい」と聞いて,ある閃きを感じたのである.もちろん,旺文社氏は理屈や理論を言ったわけではない.だた,経験上そうなっていると繰り返しただけなのである.
私の閃きとは,学ぶとはわからないことをずっと抱え込んで,緊張の中に生きることではないかということに気づいたことである.数学を捨ててしまえば,気は楽になるが,学びの緊張はゆるむ.少しばかり,安易な気持ちがほかの教科に対しても向けられることは避けられない.学ぶことは主体がまずあって知識を受け入れていくことではなく,外部の「知」を受け入れることによって自己(主体)のありようが変わっていくことだからである.したがって,わからないものをずっと抱え込むということは,学び全体の緊張のために必要なことかも知れないのである.