木田元「ハイデガー拾い読み」新書館 (2005)
第一回 ハイデガー講義録の面白さ
この邦訳全集では,監修者の方針で「存在」という訳語を使ってはならないらしく,
通常 <存在> と訳されるは一律に <有> と訳される.
したがって,『存在と時間』は『有と時』になる.
たぶん監修者は,ハイデガーのこの本を,
道元の『正法眼蔵』の第二十「有時」の章
にムリヤリ結びつけて読みたいのであろう.
それも一つの解釈かもしれないから,ご自分でやる分には仕方がないが,
全集の翻訳全体の訳語をそれで統制しようというのは 暴挙というしかない.
(中略)
こんなふうに訳語を統制されたのでは,分かりやすく訳そうという気にもならないのか,
この全集版の講義録の邦訳は,私たちが読んでも分からないものが多いし,
だいたい 読もうという気にさせてくれない.
(中略)
ハイデガーの講義録のように分かりやすく面白いものを,
こんな読めない翻訳にしてしまうというのは,
一種の文化的犯罪ではないかとさえ言いたくなる.(p.22-23)
第二回 <実在性> と <現実性> はどこがどう違うのか
テンソルなどの universality による定義に とまどいを覚えるのは,
「である」が「がある」から分離しているからだったのか.