木田元「ハイデガー拾い読み」新書館 (2005)

ハイデガー拾い読み

第一回 ハイデガー講義録の面白さ

この邦訳全集では,監修者の方針で「存在」という訳語を使ってはならないらしく,
通常 <存在> と訳される は一律に <有> と訳される.
したがって,『存在と時間』は『有と時』になる.
たぶん監修者は,ハイデガーのこの本を,
道元の『正法眼蔵』の第二十「有時」の章
にムリヤリ結びつけて読みたいのであろう.
それも一つの解釈かもしれないから,ご自分でやる分には仕方がないが,
全集の翻訳全体の訳語をそれで統制しようというのは 暴挙というしかない.
(中略)
こんなふうに訳語を統制されたのでは,分かりやすく訳そうという気にもならないのか,
この全集版の講義録の邦訳は,私たちが読んでも分からないものが多いし,
だいたい 読もうという気にさせてくれない.
(中略)
ハイデガーの講義録のように分かりやすく面白いものを,
こんな読めない翻訳にしてしまうというのは,
一種の文化的犯罪ではないかとさえ言いたくなる.(p.22-23)

第二回 <実在性> と <現実性> はどこがどう違うのか

の意味 (p.43-44) の話は 納得.
テンソルなどの universality による定義に とまどいを覚えるのは,
「である」が「がある」から分離しているからだったのか.

第五回 古代存在論は制作的な存在論である

形相/質料 という対概念は,制作的と言うより,
霊/肉 になぞらえた擬人法のようにも思える.
あるいは,霊/肉 が 人間を制作的に見た結果なのか.

第八回 「世界内存在」再考

「世界内存在」が 岡倉天心 "The Book of Tea" に由来する語とは!(p.177-178)
そう言えば,主観/客観 も 茶室を思わせる訳語で おもしろい.
西周らがヨーロッパのことばを 漢語を造語して訳したとき,何を考えたのだろう.
仏典漢訳という先例はあったわけだが.